1.かくしあじはひみつ

闇の魔導師のアジトへゆく魔導師の卵。カレー鍋持参。

◆シェアルの双方への気持ち
アルル:絶賛片想い中
シェゾ:獲物に餌付けされている気がする

 

 

 

「アルル。アルルが作るカレーは、どんな毒よりも危険かもしれない」
魔界の貴公子は、かつてそう言った。なんの変哲もないカレースプーンがゆらりと、何千年もの時を経てきた人智の及ばぬ魔導具のように揺れた。
「もちろんおいしいとも。すばらしい味わいだ。アルルに人を害なす意志がない、それだってわかっている。だがな、これはある種のものには、死をもたらす可能性すらあるのだ。覚えておいたほうがいい」
魔導を志す少女は、その言葉をじっと聞いている。魔を統べる王を名乗るものが告げるそれを。

アルル・ナジャはカレーが好きだ。もちろん調理もする。それはとっておきの料理で、とっておきなので、炊事場が使えるときはいつでも作る。
その日は新しいレシピがたいそううまくいった。味見で気づいた。
「これ……傑作かもしれない」
「ぐ〜〜〜〜!」
カレーの名がつく料理は大体すべて傑作だが、これは特に傑作だ。確信した。
「どうしよう、こんなにおいしくできるなんて……こんなのがもしいつでも作れたりしたらボクは人を超えた存在……カレーの神になってしまう。その可能性すら秘めた奇跡のカレーだよこれは」
「ぐぐ〜〜〜〜!」
「……これは、ボクたち二人で食べるのはもったいない」
「ぐ!?」
カレー鍋に舌を伸ばしていたカーバンクルが「なぬ!?」と言わんばかりに静止する。またか!? あるいは、まさか!? だったかもしれない。
「だから誰かと食べよう! 誰がいいかな〜〜?」
「ぐぅ……」
どことなくうんざりしているカーバンクルである。
「ん〜〜〜〜〜、誰にしようかな?」
ルルー、ウィッチ、ドラコにセリリに。そんなふうに友人たちの名前を指折り挙げるアルルに、カーバンクルは沈黙している。ややあって、そんなことちっとも考えてなんかいなかったけれど今まさにこの瞬間思いついた! というように、アルルは声をあげた。
「そうだ! シェゾに食べさせてあげよう! どうせまた食費削ったり食事忘れてたりするんだから! ねっ!」
「ぐぇ」
カーバンクルが変な声を出した。間違って苦い薬草を飲み込んだような声だった。

で、うららかな陽気の街を出て、森をぬけて、鍋を抱えて向かうは闇の魔導師の拠点である。状況を知らない人間から見れば「邪神的なものへの供物?」と捉えられかねない行為だ。捧げ物はカレーであるが。

アルル・ナジャは友人の多い少女で、手製カレーを共に囲みたいと思う友人は少なくない。でもそれでも、せっかく、とっておきのカレーができたのだから。
それでもまっさきにここに来たのは、それらしい理由がないと会いにいけないのが彼だからだ。
友人たちのように、天気がいいからとか会いたかったからとか、そういう理由では会いにいけない、アルル・ナジャを「獲物」と呼ぶ青年。
カレーがおいしくできたから、というのだって理由になっていないと言われたらそれまでだけれど、少なくとも食べ物があれば追い返されないし、いろいろ言うけれどちゃんと食べてくれるし、なんなら遠回しにほめてもくれるし、カレーに合うサラダやドリンクなんかも出してくれたりすらする。
もう来るなよ、と毎回言うくせに、そんなふうにもてなしてくれるから(本人にもてなしている自覚はないだろうが)こうして足を運んでしまうのだ。

(そう、ボクがずうずうしいわけじゃなくて、シェゾにだって責任と原因があるんだ。もっとちゃんと突き放せばいいのに)

「ぐっぐ〜〜  ぐぐ〜〜〜〜」
「そうだねえ、シェゾのところで食べたらこのカレー、もっとおいしいよ。楽しみだねえ」

すぐにカレーが食べられないと知ったカーバンクルはうちひしがれていたものの、アルルに「シェゾはたぶんデザートも出してくれるよ」と勝手な観測を告げると切り替えてくれたらしかった。確かに毎度毎度おいしいものが出てくるからと許容したようだ。早く行こうと言っている。

彼は街から少し離れた洞窟に住んでいる。研究肌の魔導師は研究と実験になにかと都合の良い地下施設、つまりダンジョンに住みがちだ。が、彼はその代用として、洞窟を改良した住居をあつらえているのだった。民間人が家を建てるかわりにテントで生活しているようなものである。

洞窟を大きく覆うような、魔導による不可視の半球は人避けの結界だ。そこに触れると、なんの魔導も持たない人間や獣には「特に意味はないけどこっちに足を運ぶのはやめよう」と無意識に働きかける。
物理的に何かをはじく結界を張ってしまうと魔導力の消費が大きいし、逆に「何かあるのでは」と思わせてしまうためそうしているのだと言っていた。
が、すでにそこにそれがあると知っている人間には効果が薄く、アルル・ナジャは魔導師(の卵)なのでもともと注意深くあれば結界の存在を察知できる。何より「絶対に一緒にカレーを食べる」という気持ちが強かったために、当代の闇の魔導師による結界も、薄布のヴェール程度でしかなかった。

結界をくぐって少し歩けば洞穴の入り口が見える。そこに入ってさらに少し歩くと、階段が二つ。一つは研究用設備があつらえてある地下フロア、一つは居住エリアに続く登り階段だ。
もちろん階段を登る。カーバンクルはぴょんぴょんと跳ねながら先行していった。登り切ると、岩山の中腹のはじっこを水平に切りとって舞台にしたような、踊り場のような広い空間に出る。薬草やら野菜やら果樹やらの畑に囲まれた中央に、小さいけれど品の良い小屋がある。その、いっそ牧歌的とも言える小屋こそが、闇の魔導師の現在の根城なのだった。

いろいろあって初めて訪れた際、アルルは一目でこの場所が気に入ってしまった。魔を統べる貴公子の、いっそ冗談のように豪奢な建築物をいくつも見てきたし招かれてきたけれど、「ここ、好き」と思ったのは初めてだった。通い詰めてしまう理由の一つでもある。

畑仕事をする魔導ゴーレムを横目に、小屋の前までたどり着いたアルルは扉をノックする。
「シェゾー。シェーゾー。カレー持ってきたんだ、一緒に食べよー?」
待つ。返事はない。
上空を二羽の鳥が滑るように流れていった。
「……むー?」
小屋の中の魔導の気配を探る。彼の魔導力の気配はある。真っ黒の絵の具のような、温度のない氷のような、けれどどこか、目が離せなくなるような気配。
「居留守? って、そういうヤツじゃないよねぇ」
「ぐっぐぐー」
肩の上の相棒に語り掛ければ、返事が返ってくる。同意なのかなんらかの意見表明なのかはアルルにしかわからない。何気なくドアノブに手をかけたのは、無意識だった。
「あ、開いてる」
施錠の意味も理由もないのでそもそも玄関扉に鍵はかかっていない。その扉を開けてしまった。

「おじゃましまーす」
一応戸口で声をかけて、上がりこむ。
内装はシンプルだが、魔導書がたっぷり詰まった本棚(地下からごく一部を持ってきているだけなのだが、それでもちょっとしたものだった)や未整理の魔導アイテムたちがある種の生活感のようなものを出していた。
キッチンと簡易的な実験室を兼ねた部屋に、はたして、目的の男はいた。
ただ、一目見てそれとわかるほどぐったりと弱っている。長椅子に仰向けに寝そべっている。倒れこんでいるといってもいいかもしれない。常より白い肌からさらに血の気の引いた白い顔色、呼吸も苦しげであった。手には紙を一枚持っている。
「シェゾ!?」
カレー鍋を大きな机に置いて、アルルは駆け寄った。長椅子のそばに膝をつき、意識するよりも早く呪文を口にした。
「ピュリファ、」
唱えかけた解毒呪文は、ゆったりと伸びてきた男の大きな手に中断させられた。口元をそっと塞がれた。囁くような声がそのあとを追ってくる。

——いらん。

「……なんで?」
ふさがれたままもごもごとアルルは抗議する。シェゾ・ウィグイィは伏せていた目を薄く開けて、侵入者を見やった。首を傾けるのも難儀するようだったが、それでも伝えてきた。聞き取りにくかったので、アルルはその口元に耳を寄せる。

——実験中、だ。……毒物への、耐性、を、確認している。

彼の目線が、カレー鍋を置いたテーブルを指す。アルルはその目線を追い、テーブルの上にいくつかの小瓶とレポート用紙の束を見た。
小瓶にはラベルが貼ってある。神経毒、筋肉毒、出血毒……他にもいろいろ。レポートの束は、一番上を見る限り、それらの「検証結果」を書き留めているようだった。
「なんで……?」
アルルは同じ言葉を繰り返した。今度の「なんで」には、どうしてそんなことしてるの、の意味が込められている。長椅子の近くのサイドテーブルにも小瓶と筆記具が置いてあり、その小瓶には「麻痺毒」と書かれていた。玄関まで出てこなかったのはこれを煽って動けなくなっていたからだろう。今も、効いてはいるようだが。

——自分の体を、知る、ためだ。……数時間は、動けない、だろう。今日は、帰れ。

「わかった。じゃあ動けるようになるまでカーくんと遊んだりしてるから」
「ぐぅ」

——いや……わかってねえだろ……

「なんで毒飲んでるのかと解毒がいらない理由はわかったよ。でも帰らない。なんたって今日のカレーは最高傑作なんだからね!」

——……いや……だからな……? そもそもな……?

俺の家に来ること自体がな? と言いたげなシェゾに、アルルは長椅子の足元にかけてある黒いマントをひっぱり、彼にかけてやった。弱っているシェゾが寒そうだったので。
マントの上で軽く手をぽんぽんとはたく。カーバンクルが真似をしてか、シェゾの胸とマントの上に乗って、ぽんぽんと跳ねた。
「あ、こういうのもやらないほうがよかった? 結果がぶれちゃう? ごめんごめん、あとは何もしないから。じゃあまたあとでね!」
そう朗らかに笑うと、アルルはカーバンクルを抱き上げ、キッチン兼簡易実験室を出た。
残されたシェゾは、身を起こそうとして、諦めて、ぐったりと目を閉じた。

キッチンの扉を閉めて、庭先に出る。
畑仕事を終えて給電モードのゴーレムを横切り、とことこ畑の真ん中にやってきて、それから。カーバンクルをぎゅっと抱きしめ、
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っはぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……!」
「ぐぇ」
アルルはしゃがみこんだ。腹の底からため息を大きく超えたものを吐き出した。カーバンクルが抗議のように舌を出すものの、さらにぎゅっと抱きしめた。むしろ握りしめた。丸まったようにしゃがみこむ少女の頬は紅潮している。
「……どうしよ、なんか、どうしようカーくん。すごいえっちなもの見ちゃったきがする……!」
カーバンクルのつぶらな瞳はいつも通りだ。いつも通りだが、口をきゅっと閉じて置物のようになっている。カーバンクルがアルル相手に「無」になるのは、レアである。サタンがアルルとの新婚生活(妄想)を語っているとき、ルルーがサタンとの運命を語っている時もこういう顔になる。
「や、なんか、毒受けて弱ってる人にそういうの、最低なのはわかるよ! わかるけどさぁ、しょうがなくない?? だってえっちだったもん!」

とんでもなく美しいくせにしっかり男らしさもある容姿を持つ彼は、戦いの場ではぎらつくような生命力に溢れている。そうでない時、町などで居合わせた時は少し皮肉げな様子ではあるけれど、やはりそれなりに生き生きと動いて、しゃべっている。
その人間らしい言動のおかげで、本来なら目が合うだけで挙動不審になってしまうようなド好みの容姿相手でもそれなりに漫才もどきの会話をしたり雑に扱ったりできるのだ。

それなのに。
ぐったりと弱って力が抜けた姿は儚げで、緩慢な動きは淫靡でもあった。掠れた囁き声は鼓膜をぞくぞくと震わせ、ああ、今この男は自分でもぐちゃぐちゃにできるかもしれない、そんな嗜虐的な、乱暴な感覚を呼び起こさせてきたのだ。
(なんかめちゃめちゃのぐちゃぐちゃにしたいって思っちゃった、どうめちゃくちゃにするのかはよくわかんないけど、おなかの奥がうずうずした……)
はふ、と、ついたアルルのため息も悩ましげだった。カーバンクルは無である。

「数時間くらいって言ってたよね…… カレーはシェゾが起きてからいっしょに食べよう。何か軽いものでも食べて待ってよっか」
「ぐぅ!」
飯! と、カーバンクルが復活した。何か軽いもの、すなわちシェゾの食糧庫からなにがしかを頂戴するということである。
「よっし! シェゾ、ちょっとキッチン借りるね!」
ばたばたと元気にキッチン兼実験室へ戻り、弱っている家主を顧みずにパン(固くなっていたので軽く焼いた)とバターと保存肉を速やかに探し出し、畑から新鮮な野菜も見繕い、庭先でサンドイッチなど作って「いい天気だね〜」と日向ぼっこを楽しむ。
「ぐっぐぐ〜」
カーバンクルもごきげんダンスを披露している。

庭で二人で踊ったり、歌ったり、おにごっこやかくれんぼをしたり。カーバンクルと楽しく遊んでいると時間はあっという間だ。
「あはは、カーくんみっけ! 次はボクがおにだよ〜」
「ぐぅ〜〜」
「二人だけのかくれんぼでどうしてそこまでもりあがれるんだお前らは」
声に、ぱっとアルルが振り返る。
まだ少しくたびれた様子のシェゾが、ゆるりと戸口にもたれかけながら腕を組んで立っていた。
「シェゾ! もう大丈夫?」
「ぐっぐぅ!」
「おー、回復までの経過記録は取れたからな」
「そっか〜」
一人と一匹が近づいていく。一匹のほうは、高い位置の銀髪の上にぴょんと乗った。一人のほうは、手をかざして無詠唱で解毒の魔法をかけた。そのことに何か言われる前に言葉を注ぐ。
「じゃ、ごはんにしよ! お米も炊いてたんだ。今日のカレー、おいしすぎるからびっくりしちゃうよ!」

おいしすぎてびっくりするってどういうこったよと軽口を叩きながらカレーを温め直したりサラダを作ったりしていた闇の魔導師だが、一口食べて、動きを止めた。
「……たしかにうまい」
「でっしょ〜〜〜〜〜? イエーイやったねカーくん!」
「ぐぅ!」
一人と一匹がハイタッチしている。
「いや、これは確かにうまい……うまいが、何か……なんだ……? それだけでは、ないような」
シェゾはカレー皿を目線と水平にして目をすがめたり、それでなにがわかるだけでもないだろうにいろいろな角度から見ている。
カレー皿からは魔導の気配は一切無い。当然だ、これはただの手作りカレーだ。だがシェゾには何か、何かが、違うように思えた。「うまい」という感覚が、舌だけでなく臓腑の奥にもじわりと広がるような。注意深くとらえなければ気のせいで済ませてしまいそうな、微かな、なにかが。
つかめそうでつかめないその感覚を一度諦めて、皿を置いて水を口にする。
「愛情がたっぷり入ってるからじゃない?」
「ゴフッ」
「ぐッ!?」
「もちろんボクのカレーへの愛のことだよ!」
「……ああそうかい」
噴いた水を浴びたカーバンクルを拭きながら、やっぱ気のせいだな、ここんとこマトモな料理食ってなかったしな、と思い直したシェゾだった。

どうして毒を煽った実験なんぞをしていたのか、という話については、知られてしまったことだし隠す必要も感じなかったシェゾがおとなしく語った。
「どうもな、薬の効きがよくなってきちまってるらしい。食い物で栄養を摂るのが習慣になってきたからだろうな……消化器官が活性化してるっつーか」
曰く、長いこと「人間用」の薬のたぐいはほとんど効かなかったのだという。大気を大地を流れる魔導力、そして生物のそれを喰らって存在を繋げてきた長い長い間、口は食物の摂取用途としては使われず、臓腑もまたそうであった。
人里に居を構えてからの彼の変化はアルルも一番近くで知るところだった。それが食べ物にあるらしいということも。
「「薬」だけが効くなら歓迎だが、つまり毒も効きやすくなってるってことだ。定期的に自分で実験してるが、実験のたびに効きやすくなっている。だいぶ弱くなった。今は人間の許容量三倍程度の薬物で効果が出ちまう」
「三倍? それでも三倍盛らないといけないの?」
「実践すんなよ? で、まあ、どの程度の量ならどの程度効いて、活動可能になるまでの時間がどの程度なのかを確かめてた」
「なんて物騒な定期検診なんだ……」
「だが必要だ。自分の許容量を知っておくことはな。盛られてから初めて活動限界を知るんじゃ遅い」
「そっか……ボクもやっといたほうがいいのかなそういうの」
「お前にはいらん、つか盛られるような状況に近づくな。お前の場合、限界がわかってるとむしろなんとかなるからと事態を甘く見る可能性もある」
「う、そうかも」
「たちの悪いものに不用意に近づかなければ、まあ、めったなことじゃそういうあれもないだろう」
「たちの悪いもの。たとえば、闇の魔導師とか?」
「ああ、闇の魔導師とかだ」
「ボクに薬盛るの? えっちになるやつとか盛るの?」
「なんでだよ阿呆。どっから出たんだその発想。盛らねえよ」
シェゾのカレー皿がカラになったので、おかわりを促す。体調は問題ないようだ。
(そうか、シェゾはボクに薬を盛らないのか。ボクは闇の魔導師よりもたちが悪いんだなあ)

いろいろ、そこに至るまではまあいろんなわちゃわちゃごっちゃりどたばたがあったあげく、サタンにアルルのカレーを振る舞ったことがある。
サタンはアルルと二人きりだと物静かだ。いろいろあってカーバンクルも不在でほんとうに二人きりのとき、サタンは穏やかでいる。アルルの家で、ふたりっきりなのに、その時だってそうだった。

だからカーバンクルと二人で食べるつもりだったカレーを振る舞った。そこに至るまでのあれこれの礼で、詫びで、好奇心だった。この十万と二十五歳を自称する存在は、小娘の手作りカレーなんて食べたことはないだろうと。食事だっておそらくは必要ないのだ。
スプーンを扱う姿はどう見ても人型で、その所作は優雅だ。だが言語化できない不自然さがそこにはあった。舞台のうえで役者どうしが愛を囁き合うのに似た、よくできているが「ほんとう」ではないという感覚。
一口、口に運んで、闇の貴公子は微笑んだ。

「うまいな」
「ありがとう」
「料理とは。人間に備わった、人間だけが使うことができる、古い古い、本物の魔法のひとつだ。練り上げて魔術だとか錬金術だとか呼ぶようにもなったようだがな。魔法の本質だよ。命を整え、こしらえ、都合よく取り入れるためのもの。アルルのカレーには、その魔法のかおりが強い。魔導のそれとは違うから人間には知覚が難しいかもしれないが」
アルルには聞いたことのない話だ。だがそういった与太話をする魔王ではない。だから本当のことなんだろう、そう思って聞いている。ヒトにはのぞけぬ宇宙の隙間からでないとわからないはずのものを聞いているのだ。

「ふふ、カーバンクルちゃんが虜になるわけだ」
「カーくんはボクのことが好きだからいっしょにいてくれるんだけど?」
「ああそうだな、もちろんそうだ、失敬した。私だってそうだ。アルルを好きだから后になってほしいのだ」
どうだか、という少女の眼差しも、魔王は涼しく流している。いつもならわあわあ騒いでみせるくせに。
「古い魔法、って他にどういうものがあるの」
「いろいろだな。旅立つ人へ無事を祈る言葉、生まれてきた我が子の幸せを願う想い、愛する存在と触れ合うこと、棲家を掃き清めること……」
食器が触れ合う音だけが響く。この魔王様は、今まで何回「食事」をしてきたのだろう、と考える。自分より少ないかもしれないとすら考えた。

「……アルル。アルルが作るカレーは、どんな毒よりも危険かもしれない」
サタンは言った。なんの変哲もないカレースプーンがゆらりと、何千年もの時を経てきた魔導具のように揺れた。
「もちろんおいしいとも。すばらしい味わいだ。アルルに人を害なす意志がない、それだってわかっている。だがな、これはある種のものには、死をもたらす可能性すらあるのだ。覚えておいたほうがいい」
魔導を志す少女は、その言葉をじっと聞いている。魔を統べる王が告げるそれを。

「たとえば、人間としての死をやめたものがこれを食べ続ければ、人間の死に近づいてしまうかもしれない。そんな事例を見たことはないが、可能性がある」

人間、人間の死をやめたもの。脳裏に閃くのは銀色の髪と黒衣だ。魔王も当然、彼を指して口にした。
「魔導に打ち克つ存在は、魔法だ。魔法は劇的な変化をもたらすものではないが、そうあってくれと祈る相手を確実に変化させてゆくだろう。変化はごくわずかなものとして現れる。ヒトに少しずつ近づいていく、それは苦しませるだけかもしれん。だからな、このごろどうも熱心に餌付けをしているようだが、あれに手料理を振る舞うのは、まあ、だから……」
「だから」
「やめておいてやったほうがいい、と、思うんだが…… アルルは聞かないだろうな〜〜〜〜〜? あ〜〜〜言わんほうがよかったなこりゃ、いいこと聞いたって笑顔だなあアルル・ナジャよ!」

「さあさあシェゾ! カレーのおかわり、大盛りだよ〜! いっぱい食べてね!」
「ぐっぐぐ〜!」
カーバンクルがテーブルの上でくるくると回る。獲物とみなしている存在に食事を与えられるということにひっかかりがないでもないが、差し出してくるものを拒む理由も特にない。カレーは確かに美味であるし、別に食べたってかまわないだろう。特にこれを食べることで不利益が生じることはないだろう。ないはずだ。ないよな? 闇の魔導師は、どうにもどこかに納得できないものを感じている。
「どうしたのシェゾ、難しい顔して。何考えてるの?」
「決まっている。もちろんお前のことだ」
「わかっていても慣れていても真顔でそういうこと言われると本当にシェゾってダメだと思う。気をつけてほしい。相手がボクでなければ人生を狂わせてる。もうちょっと詳しく説明して」
「お前が俺にこれを食わせにくる理由を考えている」
「前も言ったじゃん、作りすぎちゃったからって」
「カーバンクルならこの十倍でも食うだろ」
「ぐう!」
自分、もっといけます! と言いたげに、カーバンクルがちっちゃな握り拳をアピールした。

「それだけじゃここにくる理由にはならんだろ」
この問答は初めてではない。最初にカレー鍋を抱えてきたときも、その後も何度か蒸し返している。
アルル・ナジャは友人が多い少女だ。学友はもちろん、町の人々との関係性も良好だし、魔王のしもべたち、魔物とすら友人だ。ともにカレーを囲みたい存在は山ほどいるのだ。なんで森を超えて洞窟をぬけてまで、捕食者のアジトへやってくるのか。
「それも言ったじゃん。おなかすかせてる闇の魔導師サマがボクのカレーにあらがえないのがめっちゃおもしろいからって」
ニコ、と少女は笑った。

交友関係の広い少女はたんぽぽのような素朴さと無垢さ、素直さ、朗らかさでもって広範囲の好意をモノにしている。何度か、自分のいないところでの少女のそういう姿を見たことはある。
(でも俺の前だと、なんかいい性格してんだよなこいつ)
それがなんだか、腹がたつような、むずがゆいような気がする。

カーバンクルがカレーを皿ごと舌ですくいあげ、食べた。というか口の形のブラックホールに放り込んだ。アルルはニコニコしている。
「カーくんは食べっぷりが豪快だねえ」
「ぐっぐ〜 」
初めて見たときには「俺んちの食器食ったか今?!」と詰め寄ったその光景も、もはやシェゾの思考を遮りはしない。
カーバンクルは次の瞬間に、ぺろっ、とぴかぴかの皿を出した。
「カーくんはきれいに食べるねえ」
「ぐぐ〜〜〜〜 」
(やっぱなんか、隠してんじゃねえのか)
おもしろいから、だけではない、なんらかの動機が。だが彼には、その理由にまるで思い当たるものがなかった。魔導学校の幼年生のほうが、まだ真相に近いところに辿り着けたかもしれなかった。女の子が手料理を持って男の家に行く理由なんて、ありえないほどシンプルだ。

食後のデザートは今からじゃ用意できないがまあコーヒーでも飲んでけ、と、なんだかんだで義理堅い闇の魔導師に言われたので、アルルはソファに座っている。数時間前に、家主がぐったりと倒れていた長椅子に。
アルルは膝のうえのカーバンクルの手をつまんでちょいちょいと踊らせたり、長い耳をマッサージしてやったりしながら、コーヒー豆を挽いたり湯を沸かしたりしているシェゾの背中を見ている。背中もかっこいいんだよなあ、と思っている。
「ねー、シェゾー」
「おー」
「あのねえ、……あのさあ、」
もう全部言っちゃおうかなあ、と考える瞬間が、このごろわりとひんぱんにやってくる。カレーを食べてほしい理由とか、それはそれで自分の料理を食べてくれてるってだけでうれしいとも思ってることとか、好きだってこととか。
抱え込んだ気持ちがもう決壊しそうだった。受け入れてもらえるなんて思っていない。今はまだ。それよりもぶっ壊したい、みたいな気持ちに近い。ダンジョンの奥で複雑な謎解きに遭遇し、あれこれやったけど万策尽きたので爆破魔法でぶっとばしたいという気持ちに近い。
「なんだよ」
けれど、肩越しに振り向いた、その表情が。すっかり気を抜いた穏やかさだったので。
少女は黄色い相棒をぎゅっと抱いて、小さくなってしまったのだった。
「…………ないしょ」
だから、そんな彼女を見た彼の表情を見損ねた。
見ていれば、恋人になる日がもう少し早かったかもしれない。