5.小悪魔なので

サキュバス回です。サキュバス回ってなに?

◆シェアルの双方への気持ち
アルル:顔はいいけど好きになんてなるわけがないめんどくさいヘンタイ、でもまあ頼りになることもあるという無自覚期
シェゾ:獲物だけど気づいたらなにかと保護している気がする、なんだこれは

 

 

 

 

街での買い物から帰宅した闇の魔導師は、満点の星空の下の庭先に足を踏み入れた瞬間、自宅内の気配に足を止めた。
魔物が入り込んでいる? と臨戦体制に入ったが、次の瞬間にそれをやめた。気配はなんだかんだでしょっちゅうおしかけてくるあの獲物、獲物の自覚がない魔導師のタマゴのそれだったのだ。
魔物と誤認したのは、どうにも気配がおかしなことになっているからだ。いつもの彼女の純粋な輝きではない。それに太陽が落ちてすっかり暗くなってから勝手に上がり込んでいるというのも初めてだし、彼女の性質として、夜半に男の部屋に上がり込むというのも違和感があった。

ひとまず買い込んできたものを庭の倉庫に押し込み、一応警戒しながら自宅の扉を開ける。瞬間、異様な匂いのようなものが流れ込んできた。飴を煮詰めているような、強い酒を煽ったような、酩酊を呼びおこすもの。
だがそれは物理的な匂いではなく、むしろ睡眠や魅了の魔法に挙動が似ている。神経になにかを直接訴えかけてくる。この匂いでなんらかの衝動がわいてくる気がするが、衝動の正体がつかめない。質量すら感じる重甘さ。
気配、匂い、は、寝室から漂ってくる。再びシェゾは訝しんだ。アルルは勝手に押しかけてきてあれこれ物色はするが、寝室には入るなという言いつけはおとなしく守っていたのだ。

念の為に闇の剣を出現させ、耳を澄ませながら足音を殺して寝室へ向かう。
かすかに聞こえてくる。衣擦れの音と、呼吸音……

「……んっ……はぁ、ふ…… ふぁ、シェゾ…… っ、ん、はやく、きて……♡ はぁ、は、んん……♡」

がしゃん。
闇の剣が落ちた。落ちた剣は抗議するかのようにそのままふっと消えた。

荒い呼吸と時折高く囀るような声、もぞもぞとうごめいているような衣擦れの音。
闇の魔導師は頭の中にクエスチョンマークをぎっしり詰めて、もうそれ以外なにも頭にないままで、ほぼ自動的な動きで寝室の扉を開けた。
扉を開けたとたん、謎の「匂い」がむわっと強くなった。その感覚は香りのきつい熱帯の花を想起させた。
寝室の中央に据えてある自身のベッド、シーツの中にもぞもぞと動いているものがいる。侵入者が。いる。なんか不可視のハートをちらしてるようなかんじに見えなくもないが、いる。
「はぁ、はぁ、はぁっ、も、限界……っ♡ だめ、っ……」
ばさ。シェゾはいっそ無表情無感動に、ベッドへすたすた歩いてゴーレムのようにシーツをはぎとった。

はたして、そこにいたのはやはりアルル・ナジャだった。
が、自宅の外から感じたように常ならぬ状態ではなかった。

まず服装が異常だった。いつもの白と青のさっぱりした服ではなく、てらてらと濡れたように光る黒で、身体にぴったりと張り付いていて、しかも面積が小さかった。というか、隠さないといけないところだけを覆っていた。小さい面積のくせにハート型の穴でさらにぎりぎりをせめていた。覆った布?どうしは、ほぼ紐みたいなベルトやらハート型のバックルやらで繋がれて、いっそそのベルト的な紐がないほうがなんぼかましにみえるのではと思われる、とんでもないデザインだった。身体を覆うのはそんなかんじでありながら、黒いグローブとブーツは肘および膝よりも長く、コントラストで胴の肌の白さをより際立たせている。
そのうえほぼ丸見えの背中と耳の上には小さな蝙蝠の羽根、こちらもかろうじて紐的なもので保護されている尻の上の尾てい骨からは細い尻尾が生えている。それらはぷるぷると小さく震えている。生えている。

なによりその様子。シェゾのベッドの上で横向きにまるまって、朝に彼が脱ぎ捨てた夜着をぎゅっと抱きしめて、これは、どう見ても、においをかいでいる。しかも深くかいでいる。荒い呼吸で。
太ももをもぞもぞと擦り合わせ、夜着をきつく握りしめる指先は自身の胸にためらいがちにむかいかけて、あわてて再び夜着に戻る。そうして、シーツをはぎとった家主に気づいて、潤んだ金色の瞳を向けた。

「はぅ、はぁ、んんっ、は、シェゾ、シェゾ……っ♡♡♡」

呼ばれているシェゾ・ウィグィィは、この状態のいきものを何度か見たことがある。
情報集めのために出入りした治安のよろしくない盛場で、アイテムを奪うために踏み込んだ宗教団体のサバトで、春にそのへんの猫で。
発情だ。

獲物が、アルル・ナジャが、夜に、自分のアジト、しかもベッドの中で、自分の夜着のにおいをかぎながらおかしな格好で発情している。

この複雑怪奇な状況を、古代魔導に造詣の深い闇の魔導師たるシェゾ・ウィグィィは一言でまとめてつっこんだ。

「なんっっでサキュバス化してんだお前は!?!?!?」
「ふ、ふええ……シェゾぉ……やっと帰ってきたぁぁ……」
ふるふるとアルルが身を起こす。生まれたての子鹿のように。

「な、なん、なんか、遺跡で、ひろった、この、チョーカーがぁ、」
震えながら指差すアルルの喉元には言葉通り、おかしな魔力を発するチョーカーがある。黒くて細いリボン状の革と、ピンク色のハートの宝石だ。キラキラと内側から発光している。
「つけてみたら、こ、こんなんなっちゃってっ…… それで、いそいで、ここに……っ」
「どうしてここなんだよ他にも頼るさきあっただろ教会とか学校とかあのオッサンとかいやオッサンはだめだアレはだめだ(早口)」
「……? わかんな…… なんか頭がへんになって、とにかくシェゾのとこいかなくちゃって、おもって……」
うるっ、と、さらに金色が潤んだ。金色の虹彩の外側に、うっすら桃色の輪郭が見える。
それから、小悪魔の羽根を広げてシェゾの胸に飛び込んできた。
「おねがい、シェゾ……! なんとかして、ボクのことたすけてよぅ……!」
(うーーーーーーーーーわ背中エロっ、いやいやいや何考えてんだ相手はアルルだぞおいおいおいおい)
「シェゾ……?」
「あー……」
「ねえ、おねがい……? ボクのこと、どうにか、して……?」
胸板にすがりつき、乳房を押し付け、腕の中から見上げてくるアルルに。シェゾは口がすべった。思うより先に口から出た。
「乳でけーなお前」
いつもなら問答無用でダイアキュート短縮詠唱からのじゅげむである。血の気が引いたが、アルルはまんざらでもなさげな恥じらいかたでもじもじした。
「……そ、そう……? どうかな……」
あまつさえぎゅうぎゅうと押し付けてきた。何してんだお前と叫ぶところだったのを歯を食いしばって耐える。奥歯が割れたかもしれない。
「はあ、シェゾ……シェゾっ、ねえ……♡ ボク、知ってるんだぁ……」
アルルは両腕をシェゾの背中に回し、うなじに鼻先を寄せて、においをかいでいる。嗅がれている。荒い呼気がかかる。そのくちびるが、耳元にささやいてくる。
「おとこのひと、って、えっちなことしたくなったら、ここ、かたくなるんでしょ……?」
ぐい、と、ブーツに覆われた膝を押しつけられる。どこにって、それはもう。
シェゾは意図的に感情と感覚を遮断した。人間のルールからはずれた若干でたらめな機能を持ち合わせた体だからこそできたことだった。
それから、それでも、見ないように、天井を見上げて、すうーーーーーっと大きく息を吸い、その倍の時間をかけて吐き出した。
「…………アルル」
「うん……」
「アルル……」
「ん……」
そっ、と青年の指先がアルルの顎先に伸びる。アルルは頬をより紅潮させ、目を閉じた。
指先はアルルの顎を掠め、通り過ぎ、……喉元のチョーカーに伸びて速やかにその魔力を吸収した。
きらきら輝いていたピンク色のハートは鈍い光の石になり、ふわ、と、布面積の少ない黒い布と紐の複合体は見慣れた白と青のありふれたワンピースに戻ったのだった。

ベッドの上、正気にもどってきょとんとしたアルルは、同じくベッドに腰掛けたままのシェゾのすぐ近くで固まっている。両腕を彼にゆるく巻きつけた状態で。
シェゾは今し方吸収した魔力の味(?)を反芻している。
「うげ、妙な味だなこの魔力。あんまうまくはねえ」
「あ」
「おいアルル、なんか体調おかしいとこないか」
「あ」
「つーか鑑定も済んでないようなもんを身につけたりとかす」
「あああああああああああ」
「うあああああああ!?」
さすがにファイヤー暴発はしなかったアルルだが、意識的にか無意識的にか両腕に魔力で筋力強化をかけてシェゾをきつく抱きしめて、いや、締め上げてきた。ベアクローである。魔導を放てない状況下で代替的に相手を仕留める行動を取れる、これは立派なことだと成長を認める気持ちと生命の危機を両方感じる。
「背骨折れる! 折れる折れる! アルルさん折れる!!」
「あ、あ、ああああ、ボ、ボク、ボク、あの、えっと、」
「落ち着け、いいから落ち着け!」
どうにか両肩を掴んで引き離す。アルルの瞳はやはり潤んではいたが、先ほどまでの様子とは違ったのでこそっと安心する。
「む、むり、だって、あんな、あんな、シェゾ、シェゾにあんな、」
「スリープ」
「はう」
ぽて。
倒れ込んだアルルに、シェゾは長い長い長いため息を吐き出した。

調査してきた物品の整頓も後回しにしてハーブティーなど淹れていると、戸口にアルルがやってくる気配があった。戸口に半分からだをかくしてこちらを伺う姿は小動物のそれである。
「落ち着いたか」
「……………………ごめんなさい……………………」
「まあ飲め。鎮静作用がある」
「うん…………………… あの、ほんとうに、ほんとうに、ごめんなさい……………………」
テーブルに置かれたハーブティー、その前の椅子におとなしくちょこんと座るアルルに、先ほどまでのフェロモンはない。ちなみに客用カップなどないので調合用のビーカーである。
両手でビーカーを持つアルルへ説明を求めれば、ぽつぽつと語り出した。

遺跡探索で見つけたチョーカーは、単に可愛さで気に入ったものだった。自宅で見聞してみると、箱に古代語で説明文だか当時の鑑定書だかも添えてあった。アルルのあやしい文法力と辞書で「なんかモテるらしい」と判断し、つけてみたのだ。

「そ、そしたら、はずれないし、服はあんなんになるしいろいろ生えるし頭のなかがへんなことでいっぱいになるし」
「へんなことってのはなんだ」
「……へんなことだよ。それで、怖くなっちゃって、前に一緒にダンジョン行ったときのわけまえ、あれ、あの、気配が断てるマント。あれかぶってなんとかここにきたんだ。シェゾなら、なんとかしてくれるはずだから」
「怖い、ねえ。迷宮深部を一人でどかどか荒らし回るお前が? 大墳墓のアンデッドの大群でもおかまいなしのお前が?」
「ボクだって最初は学校で治してもらうつもりだったんだよ、ここより全然近いから。でも、あのね、マントでしっかり自分のことくるんでたのに、なんか、……なんか、道を歩いてるだけで、男の人たちの、目、が」
「…………なるほどな」
「それで、もっと怖かったのが、怖いのに、このひとたちにぐちゃぐちゃにされちゃったら、すごく後悔するはずなのに、それでもいいんじゃないかって、そうしちゃえばって、ボクがボクに言ってくるの、いちばん、こわくて……だからシェゾのとこに行くしかないって」
「お前……まあ確かにお前の目論見どおりにチョーカーの魔力はいただいたが」
「えっ」
「えっ?」
「チョーカーの魔力を…… あのときはそういうふうには考えてなかったな」
「じゃあなんでここに来たんだよ」
「それは」
「それは」
「……キミならなんとかしてくれるはずだとしか」

——カンベンしてくれ。
シェゾの心中はその一言だった。何をどこまで織り込んでそう言っているのかこの女は。
「このチョーカーの箱と説明書き、は、無いよな」
「う、うん、家にはあるけど」
「お前が寝てる間にこいつの術式をざっと読んでみた。これはいわゆるおもちゃだな」
あまり掘り下げたく無い話題は得意分野の説明で流すに限る。調べ終えたそれをテーブルに置くと、アルルは少しチョーカーから距離をとるように身を引いた。
「これをつけられた女は淫魔もどきになって、あー、なんつーか、男に「満たされ」ないと、はずせないままずっとああいう感じになる。満たされると外せるっつーのがまたえぐいとこだ」
「満たされ……? 満足するってこと?」
「わからんなら深く考えんな、そういうもんだと思っとけ。コレは権力者の宴会とか見せ物とかそういうところで使われてたんだろ。肉体を本質的に変異させるもんじゃなく、存在っつか位相に魔導できぐるみを作って着せたような状態だ」
「服はあんなんなってたのにきぐるみってへんなかんじだね。ええと、猫耳カチューシャとかそういうかんじのやつのすごい版ってことかな」
「その理解でもかまわん。これが本当に肉体と位相を変質させるものだったらお前サキュバスから「元に戻る」なんてできなくなってたぞ。そこまでの力を持ったアイテムってのはそうは無いだろうが……もっと慎重になれ」
「……うん」
「それ飲んだら送ってやるよ」
「うん……」
そこで会話は途切れた。シェゾもついでに自分用に淹れたハーブティーを口にする。自分用のカップはある。アルルはハーブティーの最後の一口分だけ残して、なにか言いたそうにしている。目線でうながせば、少女はぽつりと切り出した。

「シェゾ…… ボク、今夜は帰りたくない」

バフ、とハーブティーがカップに逆流した。無言で立ち上がってカップを流し場に運ぶ。
「お願い! 今日だけ泊めて! 下宿先、ふつーに壁薄いし人がいっぱいいるから怖いの! もうあんなかんじにならないってわかってるけど! なんか、なんかね、わらわら男の人が下宿先の通りに集まってきてたんだ、夜も遅いのに、「なにか」を探してるってかんじで、それで、」
「…… ここにも「男」はいるんだが」
「? うん、そうだね……? だから、だいじょうぶだよね」
——カンベンしてくれ。
本日二度目の、なんかもう敗北でいいから誰かどうにかしてくれ、という気持ちだった。
「カーバンクルはどうした、お前の部屋にいるんだろ」
「あ、うん、カーくんが寝たあとに発掘品のチェックしてたから、まだ寝てるよ。いっぱい冒険してごはんもたくさん食べたから、朝まで起きないよ。だから、ねえ、シェゾ、お願い、今夜だけでいいから……!」
「マジでカンベンしてくれ」
とうとう口に出た。
「予備の結界石やるからそれで部屋に結界張れ」
「やだー! やだやだ、ここにいるー! おねがいおねがいおねがい!」
結界石を持ってこようと歩きかけたシェゾの背中に、アルルがぎゅっとしがみつく。シェゾは考えた。ダメだと言い続けてもこの女は折れないだろう。なら条件をつきつけて拒否させてやる。
「……わかった、泊めてやる。ただし条件がある」
「! うん、うんうん!」
「乳を揉ませろ」
「ふへ」
「揉ませろ。サキュバス化前後で体型に違いがあるのか確かめたい」

無茶振りとして挙げた条件であったが、気になっていたのも確かである。あのとんでもない格好のアルルはしっかり胸とくびれがあって、全体的に小さいつくりながら「女」のプロポーションではあった。だがいつも通りの服を着たアルルには、やはりそういったメリハリが感じられない。言ってしまえば二次成長期前のおこさまにしか見えないのだ。
背中からアルルの感触がゆっくり離れる。さすがに引いただろう。この部屋は魔導実験もするからファイアーが炸裂するようなことはないだろうしアルルもそれを知っている。だが魔力強化された拳でぶん殴られるくらいはやむを得ないとしよう。

そうして、殴られる覚悟を決めて肩越しに振り返ったシェゾは固まってしまった。
アルルは拳を構えるどころか、両腕を下げて、でも指先はきゅっと握って、こころもち胸を逸らし、真っ赤になって顔をそらしながらも、目線はこちらにむけているのである。シェゾと目が合うと、こう言った。
「ど…… どうぞ……」
「」

——おいおいおいおいおいおいどうして受け入れてんだよそこはヘンタイってわめくところだろうがよこういうときにこそ言えよおいおいおいおい。
そう早口で捲し立てたかったのだが、舌が喉に張り付いたように動かない。声が商売道具(?)の魔導師だというのに、あまりのことに声が出せない。

「……? 揉まないの……?」
「あ…… あ、あ、あの、あのな、アルル、あのな、」
「恥ずかしいんだからするなら早くしてよう!」
「ぐ、ぐっ…… ぐぬ……」
「カーくんの真似とかいいから!」

シェゾは考えた。考えに考えた。ここで揉んでしまうと決定的に戻れない道に足を踏み込むような予感がある。初めて魔導師を殺したときだってこんな逡巡はしなかった。あのときはそれが必要だったのだ。そして今ここでアルルの胸を揉むというのは、必要なことなのだろうか。興味があるかないかで言えばある。正直、ある。だがとどまるべきだ。冗談だ間に受けるなバカといってこのままアルルの下宿先まで転移するのが一番安全だ。安全? この行為をいったいどう危険だと捉えているのか? たかが脂肪を揉むだけではないか? そう、これしきのことを「やっぱりやらない」となれば闇の魔導師の名が廃るというものではないか。

「よ、よし。揉むぞ。言う、言った、からには、揉むからな」
「どうぞ……!」

少し声がうわずってしまったが、真っ赤になっているアルルにはとくにつっこまれなかった。それどころではなかったのだろう。
そろそろと左手を伸ばす。緊張から小さく震えているアルルの胸を、手のひらで、柔らかく、ふわふわの雪を固めずに掴み取るようなイメージで、わしづかんだ。
(うーーーーーーーーーわ やわらけーーーーーーー)
がっつり胸を固めるタイプの下着ではないアルルの胸は、服の上からでも柔らかさが伝わってきた。しっかり反円形になっているのは伝わってくるが、相対的なサイズとしては小柄なので手のひらにおさまるかおさまらないかくらいではある。シェゾの手のひらが大きいというのもある。
「ぁ、ん、……シェゾ、」
(なんだこの感触、これほんとに人体か? うわ、まじか、すっげ、ふにゃふにゃだな、すげえなおい)
「だめ、そんっ……そんなふうに、へんなかんじするぅ」
夢中になって、それでもつぶさないようにとやわらかくむにゅむにゅと手のひらを押し付けてつぶすようにしたり、持ち上げるようにしたりしてこねまわす。
「シェ、シェゾっ、シェゾ!」
「あ?」
呼ばれて目線を上げる(ずっと胸を見てたので)と、真っ赤になったうえ涙目のアルルと目が合った。

「あ、あと、どのくらい、するの……?」

急激に我に返った。
血の気が引くのと血液が頭のてっぺんまで登ろうとするのが同時に発生して、結果的に相殺しあってフリーズした。
アルルはといえば、さんざん胸をこねられて、呼吸を荒げて涙目になっている。その姿は先ほどベッドの中で見せていた表情に近いのだが、なぜかその時よりも激しくこちらを揺さぶってくる。
ゆっくりと、ことさらゆっくりと、手を引いた。手を引くのに強い意志が必要だったので。
「……もう確認できたからいい」
「そ、そう…… 確認、できた……?」
できるわけがない。
かたや目視でのみ確認した胸、かたや触っただけで見ていない胸を比較なんてできるわけがない。そもそもどっちもはっきりと覚えていられなかった。いられなかったものの、服の上からの印象よりも凹凸がはっきりしていたということはわかった。
「まあ…… サキュったから盛られてたわけじゃなかったんだな、胸……」
「あ、うん、そうだね、サキュっても特にスタイル変わったかんじはなかったぽい……」
(そうか…… コイツ、服の下はああいうかんじなのか……一応は年相応なんだな、着痩せの逆……着膨れ……じゃないよな、なんていうんだこれ……)
そこで会話は途切れた。双方、頭の中でいろいろなことを考えていて、会話のための言葉が出てこなかった。
カーバンクルがいればのんきに踊ったり歌ったり目についたものを適当に食べたりしていただろうが、カーバンクルもいないので、そして夜なので、静かだった。
たっぷり沈黙が流れたあとで、アルルが口火を切る。

「えっと、その、これで、泊まっていっていいんだよね……?」
「まだ泊まる気でいるのかお前……すげえな……」
「だめなの?」
「……闇の魔導師に二言はない。いいだろう、泊めてやる」
「よかった……!」
安堵して笑顔になるアルルのことがわからなさすぎるシェゾである。この女、マジで貞操観念とかそのへんどうなってんだ、いやそこに危機感があるからこそここに来たし居座っているわけではあるが、自分はどういう扱いなのか。
「泊めてやる、が、俺のベッドは使うなよ! 客用ベッドなんてものもないからな、そこの長椅子で寝ろ、寝具になりそうなもん集めて使え」
「うんうん!」
「俺は未整理の発掘物の解析と鑑定をするから地下にいる。勝手に寝て勝手に起きろ、朝になって戻ってきてもまだいたら魔導力を吸うからな」
「えー? せっかくだしお話しようよ!」
「するか馬鹿! いいか、朝になったら帰れよな!」
そうしてシェゾは足音荒く自宅スペースを辞した。扉を閉めるときは強めに閉めた。
残されたアルルが「ちぇ、つまんないのー」と呑気に頬を膨らませて長椅子に座り込んでしまった、その扉の向こうで、シェゾは言葉に出せるなら山のむこうにまで届きそうな大声になったであろう呪詛のようなものを、心中でだけ吐いた。
——あんの、小悪魔!!

アルルがそのチョーカーを見つけたのは、すでに探索済みの遺跡の隠し部屋だった。アルルにはよくあることで、手づかずの隠し部屋を発見したのだ。カーバンクルと喜びをわかちあったのち、他にもみつけたいろんなアイテムと一緒に箱ごと自宅に持ち帰った。
箱自体も可愛らしい作りで、封印を解除して開けてみたら、中に入っていたその可愛らしさも気に入った。ピンクのハートの宝石。あんまりカワイイ系のアクセサリーは身につけないけれど、ちょっといいなあ、と思ったのだった。

チョーカーにはうっすら魔導力の気配があって、なんらかの効果もあることは伺えた。箱には説明書きのようなものも入っていた。古代文明語は単語と文法を組み合わせたニュアンスでしか読めなかったものの、大意を拾うことはできた。
「男を魅了する」とか「虜にする」とか、そういう内容だった。

「恋のおまじない、みたいなやつかな? へえ〜〜…… じゃあ、これつけてシェゾに会ったら、どうなっちゃうのかな……?」
綺麗な、甘い顔立ちのくせに、いつも眉間に皺を寄せてて、「お前(の魔力)が欲しい」っていうばかりのヘンタイ。ただの迷惑なヤツ、ならそれだけでよかったのに、妙に義理堅かったり、ときどき優しかったり、助けてくれたりもする、変な人。
もしこのアイテムの魅了効果? が効いちゃったら、ひょっとして、「お前自身が欲しいんだ」とか「愛してる、アルル」とか言い出すかもしれない。
「う、うわ〜〜〜〜〜! うわうわうわ、どうしよ、そんなことになっちゃったら! やだなあ、も〜〜、そんなこと言ってきたらボクこまっちゃうなあ!」
やだとか困るとかいいながら、まったくそんなことなさそうにうれしげにばたばたと足を動かすアルルである。
「え〜〜…… もしそういうかんじになったら、一生からかってやろ……「あのとき愛してるって言ったじゃないか!」とか言ってやろ……」
で、チョーカーを装着した。
あとはシェゾに語ったとおりの流れである。

「古代語の文法、まじめに勉強しよ……」
シェゾ宅の長椅子の上で、かきあつめた布にくるまりながら反省会をするアルルだった。雰囲気で説明文を読んだからえらい目にあった。やはり単語の意味だけを辞書で拾って繋げても読解には不備が出る。文法理解は重要なのだ。それを身をもって知った。
(はー…… それにしても……)
思い返す。返さざるを得ない。
なぜなら、まだ胸がじんじんしているので。ときめきとかでなく、物理的に。
「シェゾにめちゃくちゃおっぱい揉まれた……」
ぽつ、とつぶやく。
言葉にして、それが自分の耳にも届いてくると、あらためて、あらためて、とんでもないことが起きたと思う。
ぎゅっ、と自分を抱きしめるように、胸を守るように布をかき合わせる。
(いままで、なんていうか、そういうかんじのあれって全然まったくなかったよね? ボクはまあ、カッコイイなあと思ってはいたけど、あっちはそういう感じに見てくることってなくて、なかった、よね? シェゾってああいうことできたんだ? ていうかボク相手にできるんだ? じゃあもしかしてその先とかも)
先、というところで、クラスの友人などからどうしても耳に入ってくる派手な情報がちらついた。そこにシェゾの存在が代入されかけたところで、ぺしょ、とアルルは倒れた。
今まで「そういう」知識に積極的には近付いてこなかった、むしろ避けてきた少女の、そこが限界だった。
脳みそ沸騰から、そのままアルルは意識を失うように倒れ込んだ。

同時刻。地下の研究施設で、シェゾは黙々と資料整理に取り組んでいた。創造性を必要としない作業を淡々とこなすことで頭を冷やそうとしていた。というか考えずにいたかった。
そもそも、「闇の魔導師」を継承してからはいわゆる三大欲求というものがほとんど無かった。魔導力を啜って生命をつないでいたあいだ、人間の肉体は容れ物でしかなかったのだ。だから首を飛ばされてもたいした問題にならなかったりしたのだが、アルル・ナジャを獲物と定めて人里に近い場所に住むようになってから、人間の肉体の機能がだんだん戻ってきたのだ。
まず食欲が湧いてくるようになった。それから睡眠欲も。その二つが数十年ぶりに戻ってきた際には多少驚きはしたが、まあそういうこともあるだろうと受け入れた。今も意識ではそれらを満たすための行動が取れず、行き倒れがちではあるが。(そしてそれを発見するのはなぜかいつもアルル・ナジャである)

性欲まで得てしまうとは思わなかった。それほどこの体は人間に近付いているのか。生物としての生殖など不要なはずなのに。
それにしても長い放浪生活で、性欲に足を取られて振り回されたり破滅したりする男どもを心底軽蔑侮蔑嘲笑してきたものだが。

(たかが…… たかが胸を揉んだだけでこんな……)

ものすごい敗北感を覚えてしまう。気を抜くと、手があの感触を反芻しようとする。おとなしく揉まれていたアルルの表情も。そういえばなんか声も出していた気がする。

「いや思い出すな! 思い出すな!!」
声に出して、ばん! と、両手のひらを石壁に叩きつける。痛い。
長い、長いため息をつく。石壁に額をついて、ふと机に目をやれば元凶であるチョーカーが置いてあるのが目に入った。どさくさで持ってきたのだった。
これは手間賃でいただいて問題ないだろう。アルルも、もう見たくもなさそうだったし。
(魔力を吸収しきって術式を破壊すれば、アンティークの宝飾品としてでも売れるだろ。とっておいても用途なんて……)
「……」

(まあ……術式を破壊する理由もないな…… 売り先を選べばむしろ高く売れる……売り先を、十分に、吟味する必要は、あるが)

その時点でシェゾがなんとなく思っていたとおり、チョーカーは結局どこにも売られず、術式もそのままに、魔力さえ注げば稼働できる状態で彼の倉庫に保管されつづけた。
され続けたし、のちに恋人にもう一度つけさせた。
さんざんヘンタイよばわりされたが「俺の性癖を曲げた責任をとれ」と詰め寄られた恋人は、渋々応じたのだった。