4.天使にあらず

アルル・ナジャは自分を監禁した魔導師の首を落とせる女。

◆シェアルの双方への気持ち
アルル:彼氏。ボクが守る。
シェゾ:彼女。一方的に守るだけではない関係であろうとは思っている。

 

 

 

 

森には濃い霧が立ち込めていた。このあたりの気候では考えられない濃霧は、魔のものの関与を思わせるものであった。
その森の中を、体を引きずるようにしながらどうにか男は這いずってきた。生きている。まだ、生きている。けれどもう死んでいるとも言える。長い間何も飲まず食わずで過ごしてきたかのようなその姿は、頬が痩け、眼窩がくぼみ、眼球が飛び出しているようにも見えた。魔導に関わらず生きている人間が見れば、アンデッドと判断したかもしれない。行き先が決まっていたわけではなかったけれど、仲間たちともはぐれてしまった。とにかくこの森からは出ないといけない、「あれ」から離れなければ。そう思っていた。

どこへ行こう、どこへ行くべきか。ただ足を動かす男の視線の先、白い人影を認めて、男の喉の奥から声が出た。まさか、あの闇の魔導師が追ってきたのか。俺の魔導力を絞り尽くしたあの男が、とどめを刺しに。

「やあ」
人影は穏やかに声をかけてきた。柔らかな、親しげな声だった。人影はあの闇の魔導師ではなかった。少女が立っている。白いワンピースに紅茶色の髪、金色の瞳の愛らしい少女。幽鬼にも見えるし、天の使いにも見えた。肩の上に、耳の長い魔導生物をのせている。その額の宝石が鈍くきらめいた。
こんな場所にいるからには、まっとうな人間のわけがない。だが男には、相手がなんであれ、対抗する手段はすでにない。

「キミは闇の魔導師の力を見誤ったんだよ。自分みたいなエリートなら外法使いに負けやしない、そう思った? 残念、そんな程度でアレに敵うわけがない。アレは人間の知識、学問の外側の理に触れてるんだから。魔導師って名乗ってるのだって、それに近しい存在を人間が定義できないからだ。欲を出さなければ、そこそこにお勉強がじょうずな魔導師として名前を残せたかもしれないのにねえ」

金色の瞳を細めて、少女は微笑む。
そして細い指が二つの道を指し示した。そう、道だ。それまでどうにか這いずってきた森に道らしい道などなかったが、少女を真ん中にして、左右の道が「視え」た。すでに魔導の力がない自分にはそういうものを見る力はない。この少女が見せているのだ。道だと感じるものを。

「左に行けば人里だ。すぐに教会がキミを見つけて救けてくれるだろう。キミはもう魔導師としては生きていけないけれど、魔導師ではない人生を歩むこともできるはず。魔導の知識を活かして商人になるとか、畑を耕して生きるなんてのもいいかもね。
右に行けば底なし沼があるよ。毎年何人か死んでるんだ。まあ、底はあるんだろうけど、泥に足を取られてしまうと魔導なしではまず助からない。だからね、「やっぱり死ぬのは怖い」と思っても、そのまま死ぬことができる」

少女は優しげに、それこそ、教会で祀られている天使のように微笑んでいる。
「好きなほうを選べばいい。キミの誇りが選ぶほうを」

男は、ぎょろりと浮き出た眼球で、左の道を見た。右の道を見た。
そうして、走り出した。
右の道、底のない沼の待ち受ける、ゆるやかで確実な死を得られるその道へ。

男の背を見送って、少女は少しだけ笑みを変えた。先ほどまでの、夢のふちで踊る妖精のような笑顔ではなく、もう少し、ほんの少し、憐れむような笑みだった。労わるようだったかもしれない。

男には、もうすぐそこにある教会にならどうにか辿り着ける程度の余力があった。あるいはここで力尽きても、森に入ってきた狩人なりなんなりに発見されただろう。
だが、ここから沼へはもう少し遠い。そのまま向かったなら、沼には辿り着けずに森のなかばで朽ちてゆくだけだったはずだ。
アルルがひっそりと魔術をかけていなければ。

彼女がかけたのは、誇りを鼓舞して体力の限界を引き出す魔術だ。ダンジョン探索では己を奮い立たせて無理やりにでも敵に立ち向かうために使う。戦場では兵士に使うという。

それを、あの男にかけた。
功名心と空虚な全能感で闇の魔導師に挑み、返り討ちにあって魔導力を奪われた「元」魔導師へ。
アルルの狙いどおり、男は誇りによって走り出した。魔導力なしで生きていくなんていう、ありえない、おぞましい、恥ずべきありさまを終わらせるために。

二人と一匹は、転移魔術でシェゾの自宅にやってきた。少女と黄色い小動物により、ぱっと室内に光が広がった。少女と黄色い小動物がくるくると回っている。
「シェゾのおうち! シェゾのおうちでごはん! ひさしぶりー!」
「ぐっぐぐー!」
「はしゃぐな」
「はしゃぐよう! だって何日ぶりだと思ってるの? ええと、うーん、まあいっか! うふふ、」
ぎゅっ、と、少女が恋人を抱きしめる。
「……おつかれさま。たいへんだったんでしょ?」
少女の優しい声に、青年の笑みがこぼれた。そっと抱き返す。
「終わったことだ。たぶんな。何も言えず悪かった、巻き込みたくなかったんだ」
「ん、わかってる……」
ゆるやかに、少女の頬に指先を滑らせる。恋人は少し頬を染めて、目を閉じて顔を上げた。
そのまま唇を重ね、笑い合った。近くで触れ合う恋人が、いとおしかったので。

そんなふうに、シェゾはひさかたぶりに、カノジョを自宅へ連れ込んだのだった。
理由は言えないがしばらく俺の家に近づくな、この闇の魔導師のアジトにはな、と言い聞かせていたのだ。
真剣な話なのが伝わったようだった。カノジョは追求もせず、わかった、気をつけてね。と金色の瞳をまたたかせた。
恋人になってからはそれなりにいちゃいちゃしていたが、彼女がきっぱりとそこで線を引いたのは、意外だったが好ましかった。もっと事情をあれこれと掘り返されるかもしれないと覚悟していたのだ。交際前はぐいぐい踏み込んできていただけに。

まあでも終わったしな、と、シェゾは打ち明けることにした。
焙煎したての珈琲豆を挽き終え、ドリッパーにかけながらぽつぽつと話す。
——最近、なんたらいう魔導の結社に目をつけられていた。宗教めいた思想の団体で、正義のためだかなんだかで闇の魔導師の首を挙げようとしていた。新興団体なので、箔をつけるのが目的だったのだろう。当代の闇の魔導師は、実在していることは知られていてもその所在は広まっていなかった。だが魔導具により闇の力を探り当て、アジトを突き止めた。そして部隊でもってその討伐を目論んだのだ。

「えっ、やだ怖いね。シェゾ、大丈夫だった?」
「人海戦術ってわけでもなかったしな。手柄を立ててカリスマ性を保つためだから少数精鋭にしてたんだろ。それでも、万一を考えるとお前のことを知られるわけにはいかなかったからな……お前は俺の弱点だ」
最後の言葉は失言だったかもしれない、と、少し焦った。アルルは自分の弱点だ、それは間違いはない。だが一人前の魔導師に対して、そしてパートナーになろうと約束しあった相手に対して、それは礼を欠いた発言ではないだろうか。
だが予想に反して恋人は優しく笑っていた。
「ボクのこと、大事に思ってくれてるんだね。ありがと」
「お、……おお。大切だ。お前を侮ってるわけじゃないぞ、魔導師としての実力も認めている。だが、俺のせいでいらん傷を負ってほしくないんだ」
「うん、わかるよ」

良い豆を焙煎して、挽いたばかりの粉を珈琲にする。手間はかかるが、味わいも香りも豊かな一杯になる。珈琲豆のポテンシャルを最大に活かしたこの手順ならば、そのまま口にするのが至上ではある。しかしシェゾはそこにミルクを入れる。近頃は、そのほうがうまいと思えるからだ。手間に対して思うことがないでもなかったが、そのほうがうまい、そう思うのだからしかたない。

「返り討ちにした魔導師の人たちはどうしたんだい?」
カフェオレを受け取り、恋人がおずおずと訊ねてくる。優しい少女を安心させようと、シェゾは微笑んだ。
「魔導力は奪ったが、殺してはいない。ある程度動ける体力も残してやったし、ふもとの教会に辿り着くようにおいやった」
「殺してはいない、か……」
目を伏せたアルルに少し焦る。でも魔導力は奪ったんだよね、と言われたような気がして。魔導力を奪ったことは当然の権利だと考えている。が、彼女に嫌われるのは困る。
「あいつら俺を殺しにきてたんだぞ。勝者が奪う、そこに慈悲を持つ必要はない。命は残してやったんだ。生きていれば魔導の知識を活かして商人になるとか農家になるとか、なんとでもなるだろ」
こどものような浅い言い訳になってしまっているのは仕方ない。言い訳なので。本心では、間違ってないと思うので。
「それにあいつらだって、魔導師でなくなったほうがよかったはずだ。あのままじゃいずれ外法や邪道に手を出すことになったろうよ。力がなくなれば、野心も消える。不可能だからな。むしろ穏やかな人生になるかもしれない」
頭で考えるよりも先に上滑りするように出てきた言葉だったが、案外これは本心ではないか、とシェゾは思う。
そう、魔導力がなければ、穏やかな人生になるかもしれない。こんなものがなければ。
「案外数年後にどこぞの商人にでもなってて、鉢合わせたりするかもしれん。そんときゃ俺は覚えてねーだろーが」

カノジョはといえば、カフェオレの入ったマグカップを置いて、珈琲豆の袋をまるごと食らおうとするカーバンクルをひらひらと指先でたしなめている。背中をむけているので、もちろん表情は見えない。アルルはなんでもないように言う。
「命さえあれば魔導力がなくてもいいっていうのは、それは、魔導師やってきた人間には死ぬよりひどいことかもしれないんじゃないかなあ」
くるっと振り返り、ぱっと笑う。
「さすが闇の魔導師! 外道!」
「そういう茶化し方するようになったんだなあお前も。死ぬより全然マシだろ、生きてんだから」
むしろ生かしてやったことを褒めろといいたい気持ちだった。昔ならすべて屍に変えていた。甘くなったな、と思う。だがそういう自分のことは、そんなに嫌ではない。
「そう? ボクなら生きていけないよ」
だからアルルのその言葉に少しぎょっとした。動揺が顔に出ただろうか。
「だってボク、魔導力なくなったらただのカワイイ女の子じゃんー! あ、そしたらシェゾのカワイイお嫁さんにしてもらお。ねっ」
胸に胸を押し付けるようにぎゅっと抱きついて、キスをしてきた彼女は、かわいかった。かわいかったので、シェゾはかすかな違和感をすっかり忘れて、少女を抱きしめてキスを返した。

——理由は言えないがしばらく俺の家に近づくな。
恋人がそう告げてくる声と瞳がいわゆるマジトーンだったから、アルルはじっと彼を観察した。今日も顔がいいなとも思いながら。

浮気するの? 真っ先にそう思ったが、そんなわけがないとすぐに自分で否定した。シェゾ・ウィグイィという男は彼の思う美学に忠実だ。欲しい魔導具や魔法書があっても、”基本的には”奪ったり盗んだりしないで文句を言いながら代金を稼いでくるし(奪ったり盗んだりしたほうが楽そうならそうするが)、野の花は避けて歩くし(必要とあらば詰むことに躊躇もしないが)、泣いている子供がいれば様子を伺ったりすらする(面倒そうならスルーもするが)。
で、その彼の美学と、浮気やら女遊びやらがあんまり一致しない。そういう悪行を好むタイプではない。

というか浮気するならそんな宣言はしない。
そもそも、シェゾはアルルを愛している。そしてその愛は、物騒な肩書きとはまるで違う、柔らかく優しい愛だった。自分と違って。

なにか厄介なことに巻き込まれようとしてる、あるいは自分を巻き込まないようにしているのだ。
頼ってくれてもいいのにと思うけれど、一人で片付けたいと思う気持ちは理解できたので、「わかった、気をつけてね」と返した。
キミを信頼しているから、そうしてほしいと望んでいるから。何も聞かない、知ろうとしないからね、というような顔で。

アルルはすぐさま情報収集を開始した。伊達にシェゾのやり方を見てきたわけではない。魔導学校職員用の資料室に忍び込んで高位導師用のアストラルネットワークを使い、少年に変装して裏路地へ潜り、魔女の家系の占い師を頼り、宿で、街の門で、旅人を洗い出した。
そうして、どうにも過激な思想の魔導結社が闇の魔導師の首を狙ってやってきているということを突き止めたのだった。

結社の規模、実績、構成員をある程度把握する。実力だけならば、どう間違ってもシェゾ・ウィグィィが遅れをとるとは思えなかった。正体不明の魔導具や術式を発掘している様子もない。だが彼は彼女の大切な恋人で、一人で危険に接してほしくないし、何より、このごろの彼は甘い。
恋人としての過ごし方や降らせてくる声も瞳も甘いが、そういうことだけではなくて。
(ちゃんと殺さないかもしれない)
そこをこそ危惧した。
凡俗の有象無象がどれほどやってきても実力では負けはしないだろう。だが、慈悲をかけてしまうのではないか? 命乞いに応じてやって不意をつかれるかもしれない。魔導力を奪ったあと、命まではとらないと、そのまま逃してしまうのではないか?
(そんなのだめだ、生かしておいちゃだめ)
魔導力を奪われた魔導師は復讐の虜になるだろう。あらゆる手を跳ね除けて、闇の魔導師を殺す、そのためだけの存在になるだろう。
別に、それだけならばかまわない。魔導師たるもの、何を追い、何を願い、何を手に入れんとするかは己の意思で選び取り、それがかなわなかったなら死ぬだけのことなのだ。アルルは遺跡で冒険者の遺体に出会っても、この人はここまでだったんだな、と思うだけだ。敵対する存在があるならば、殺すことだって躊躇わない。

だが、生かしておくのは、だめだ。おかしな逆恨み、執念、妄執には「万一」がある。人間の理を超えたなにかを手にしてしまう可能性が魔導にはあり、その可能性が恋人を害する可能性は皆無ではないのだ。

だからアルルは、恋人の家には近づかないと約束しながら、その付近の森に潜伏した。
人にも獣にも魔にも不可視となるヴェールをまとい、「結社」の魔導師たちが恋人の拠点へ踏み入っていくのをじっと見ていた。居住エリアへの侵入は、彼らにはできないだろう。入り口を見つけることもできないはずだ。いかにもといった地下の研究施設へ降りてゆき、そこで闇の魔導師に相対することになる。

待った。深い森に同化するように、溶け込むようにして、待った。
森と同じ気配になったアルルのすぐそばを兎が横切っていった。栗鼠が駆けて行った。
待ち続けて、待ったものが出てきた。
洞穴から、ほうぼうのていで男たちが転がり出てきた。魔導師の装束だが、彼らに魔導力はほとんど残されていない。
(やっぱり、殺さなかった、シェゾは)
苦い思いで彼らを観察する。なにやら言い合いになっているようだ。立案者を責めているのか、連携の不備をなじっているのか。仲間割れであるのは確かだ。
ややあって、のろのろと歩き始めた。ひとまず町へと降りるのだろう。
アルルは動いた。薄い布のワンピースが、白くひらりと揺れた。

沼に落としてやろうと決めていた。
そのままとどめを刺しても良いが、遺体の処理が残る。恋人に見つかりたくない。沼の中ならそのまま沈んでいってなんの痕跡も残らないし、何かの理由で発見されたとしても、ふらふらと彷徨った末の事故と思われるだろう。
森を霧が覆いはじめた。知人から借りてきた魔導具の力だ。あとはほんの少し認識をずらしてやれば、魔導の力のない男たちは、あっという間にはぐれてしまう。

ある男には、森に迷い込んだいたいけな少女として現れ、沼地に踏み込ませた。
ある男には、救いの道はこちらだと示して、落とした。
ある男には、死に方を誇りによって選んだと、そう錯覚させた。

そうしてぜんぶ片付けた。
教会にたどり着いた「元」魔導師は一人もいない。ぜんぶ、沼の底。

悪いことをしたなんて思っていない。魔導師が敵対するなら殺される覚悟も殺す覚悟も当然のことだ。
恋人を害する可能性を滅するのだって当然のこと。汚れはすべてきれいに拭き取る、そういうものだ。
それに「魔導力を奪うが命は残す」というのは殺すよりも残酷なことだ。
魔導を、魔を知ってしまったものが、それなしで生きていくなど。
恋人は魔導力の喪失を心の底で望んでいるふしすらあるから、だからこそ慈悲だと捉えているのかもしれないが。
命を絶ってやることこそが、善行だ。そう、善いことをしただけ……

恋人が居住用にあつらえた小屋はいつも通りに穏やかだ。先日改築した大きな窓からは陽光とやわらかな風が差し込んでいる。カーバンクルがごきげんに踊り、くるくる回るたびに額の宝石がきらめいた。
「そのワンピース、似合うな」
恋人の素直な言葉に、アルルは笑顔になった。案外素直なのだ、彼は。
「ありがと。うれしいよ、いろいろ考えて選んだから」
いたいけで、無垢で、無防備で、いいようにできる存在に見えるように。そのために用意した。もちろん、こういうの恋人が好きそうだなーとも思ったし、彼にならばいいようにされてかまわない。
「どう? かわいい?」
カーバンクルといっしょに、くるりと回る。ふわ、とスカートが広がった。
恋人は目を細めてこう言った。
「ああ、まるで天使だな」